座禅の後、お坊さんと一時間程色々な話をした。
自分が今、スッキリしていない事を、第三者に確認する為に。
精進料理は精進?
植物に言葉や思考があると認識出来ない人間からすれば、植物は殺生に当たらない?
人間という生き物だけを殺してはいけないというルールを作っているエゴイズムな人間は?
という簡単な話から投げかけ、
時間と労力を搾取するだけの人間との、自分なりの向き合い方。
無償という綺麗事を言うのなら、労働に対する対価もいらないのでは?
人間関係の断捨離(取捨選択)についての討論。
仏道に従事する者として、不可知論についてはどう考えるか等々…
相手にとって良い事を言う人には、色んな人間が寄ってくる。
勿論それによりブレーンが出来、それを利用して生きて行く人間も沢山いる。
しかしながら、本当に必要な人間は自分に良い事を言ってくれる人間なのだろうか?
自分の人生を振り返ると、自分が成長するきっかけを与えてくれた人間は必ずと言って良い程、リスクをかえりみず、自分を否応なしに批判してくれた人間だ。
真とは何か?
見定める力とは?
欲望があって当たり前の人間。
法律でさえ、人間が人間をジャッジし生死を決める時点で、人間が都合のいい様に神格化して作ったルール。
俗世から離れ洞窟に入って開眼するのか、俗世にいながら欲望を知り尽くし、やる事をすべてやりきり開眼するのか…対極であり、方法論は違えど、ゴールは同じ。
それなら僕は、後者を選ぶ。
急がば回れ。
苦労は買ってでもせよ。
心で六感を感じ悟るのではなく、歳を増す程に人の何倍も経験と知識を増やし、第六感を開眼する道が僕は良い。
その為には、時間(経験)=労力(労働や手間)=お金(対価)=想い(人間関係)…人の何倍も使わなければ人生の深みは出ないし、到達しない。
スキルが上がる事もないし、何も自分には返ってはこない。
自分を追求し、すればする程、追求の意味のなさを知り、足るを知る…輪廻…
それは、衣食住だけではなく、全てに通じる思考であり、一番大切な事はマインド。
いつも僕の心の根底にあるのは、この世のすべての物事に正も不もない。
自分も相手も、一番大切な事は目に見える物や事ではなく精神。
誰しもが、とかく判断材料として捉えがちな目に見える事である、外見、スキル、センス、資産、行為や言葉等々…ではない。
勿論、どれにおいても徳を積めばレベルは上がる。
しかしながら天井もないし、究極の行き着くゴールは必ず同じ。
目に見えるものは、実は全て試練であり、心を試されている業(カルマ)。
それ以前に、目の前に見えるものでさえ、本来そこに存在するのかしないのかさえ疑問である…
確認と確信が持て、スッキリした時間を過ごす事が出来ました!!
和歌山|一乗院|真言宗|高野山|宿坊|阿字観(阿息観)体験|8:15〜9:15
2015.04.07